Sponge Mind

日常と非日常の触発ブログ

勉強するということ

 「何のために勉強するんですか?」これは、現代に限らずおそらくこれからも尽きることはない学生の愚問である。しかし大半の大人が学生時代に一度は熟考したことがあるはずだ。教育業界に携わる者は、独自であったとしてもそれぞれが信念に基づく解答を持っているはずである。

 太宰治が記した『パンドラの匣』の一節に次のような表現がある。

日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格形成を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチべートされるということなんだ。(中略) つまり、愛する事を知る事だ。

 本文では何を愛するのか、具体的な記載はない。個人の見解として、勉強することが、人間の好奇心を燻らせ、視野を広げ、偏見を減退させ、人格を形成させる。それにより、無生物を愛し、生き物、とりわけ人間を愛し、自らを慈しむことができるのだと考える。勉強は自分自身を愛する手段の一つである。学生はスポンジのように知識を吸収できる。そのような学生時代にドットを増やし、いつ何時でもラインが引ける態勢を整えるべきである。惨たらしい不満に賛同を求め、何一つ意見を受け入れない人間になってはいけない。勉強期間こそ、いわば人格形成かつ自己表現の準備期間だ。

 

 

 さて、今日では言語習得の意義について問いただされることがある。このような疑念が生じた主な原因は、AI機器の発展にあると考えられる。その著しい発展により、他言語を学ばずとも機械を介すれば即座に正確な翻訳を知ることができるという認知度が高まったためだ。今や言語習得は必要ないのだろうか。

 

 まず、そもそも人間の脳にはバッテリーというものがない。睡眠時間を極端に削り、ストレスにまみれた状況に置かれ、疲弊しきった人間ならば、物事を熟考する余裕もなく「生きていながら死んでいる」状態になりかねないが、そうではない限り、人間は考えることができる。人間は、言葉を駆使するだけでなく、相手の意思を汲み取ろうと努め、意見を受容、時には反発しながらも自身の考えを発展させ、複雑に成長することができる。AI機器には、保証書が添付されているだろう。忘れてはいけないことは、AIが機械であるということ。故障やらバッテリー不足やらがつきものだ。それは、AI機器にとって死を意味する。AIが死ぬと人間も死ぬのだろうか。そんな構図が喜ばれる世間になってしまうのだろうか。機械に頼れないなら、頼れるものは自分しかいない。

 

 次に、AI機器は解釈する力を欠いている。現時点では、数パターン考えられるはずの言語解釈を一つに絞って翻訳している。例えば、“He must come here.”という文であれば、「彼はここに来なければならない。」と「彼はここへ来るに違いない。」の2パターンの解釈を考慮する必要がある。しかしAI機器は解釈、ましてやハイコンテクストな会話を丁重に読み取ることができない。とりわけ遠回し文句の多い日本人の言い分を、果たして機械に委ねても良いのだろうか。

 

 そして何よりも、言語習得により、表現する享楽を感じることができる。日本語の言語習得と重なるところもあるだろう。できる限り幼少期の頃から、現在までのことを思い返してほしい。伝わったときの喜びを感じたことはないだろうか。話の内容が理解できて、もどかしい気持ちが徐々に晴れていくのを感じたことはないだろうか。…異言語を使うことで得られるものは何だろう。相手の伝えたいことを汲み取ろうと努める楽しさ、自分の表現したいことが正確に通じたときの喜び、外国人の「その人のみ」が持ち得る意見から見える新しい境地と視野の拡張、それによる偏見の減退。言語を通じた意思疎通こそ、ドットとドットを繋げ、自由にラインを引くことができる素晴らしい表現のツールだと考える。これらは、言語分野で努力した者にしか味わえない、何事にも代えがたい享楽である。積み重ねてきた知識を開放し、知識という言語を介して意見交換にまで発展させる。言語さえ習得すれば、人生が少し豊かになると私は感じている。言語というのは、非常に興味深い分野だ。

 

 

 閑話休題、「異文化理解」や「グローバル化」といった単語が一人歩きしているように思える。時代の変化に伴い、生き急いだ文部科学省が各教育機関にそれらを提唱し始め、大学はスクールモットーとして掲げ、高等学校だけでなく小学校、延いては幼稚園までもが英語という言語に影響を受けている。これらを根本的に間違えて解釈している大人も多いのではないだろうか。考える余裕がない又は考えようとしない大人たちに、「異文化理解」や「グローバル化」という言葉を投げつけた結果、いつしか「言語を習得することが真意だ」と考えられるケースも発生し得るとなぜ誰も危惧しなかったのか不思議に思う。そのような忙しい大人たちが、次世代を育む教育現場に多いのは皮肉なことである。ましてや、研修がほとんどない学校なら尚更だ。何事においても、自ら学びに向かわない教員は錆びてしまう。過去の栄光にすがり続け、人を見下す教員ほど醜いと感じる。

 

 

 言語習得の意義について話を戻すとしよう。私にとって、英語とは単なるツールである。英語という世界共通言語を通して、日本がどのような国かを顧み、海外がどのような国か、また海外が日本にどのような目を向けているのかを知ることができる。言語習得から、客観的に物事を捉え、偏った思考の人間になることを回避することが可能になるのである。

 以前、様々な国籍の外国人と交流した際、非常に興味深く感じたのは、私が想像する通りのお国柄を各外国人が、外見や会話に醸し出しているということ。国の教育方針によるものだろうか。例えば、ドイツ人は厳格かつストイック、スペイン人は溢れる情熱に駆られて熱く語り熱く歌唱し、フランス人は美術への関心が富んでおり、母語を愛する上に相手の意見を聞くよりも自己主張が熱烈であった。相手の国民性を知らずして会話を弾ませることは難しい。まるで、志望校の方針や過去問の出題傾向を知らずして合格は難しい大学入試かのようだ。一部の外国人に、日本の何に興味があるのか、何が苦手なのか、尋ねることができた。思いもよらない意見を聞くことができ、客観的に日本を見るという点でも非常に興味が深まった。

 

 言語という分野は、もっと柔軟に考えてよいはずだ。それにもかかわらず、私の学生時分には「活字を読みなさい」、「英語を勉強しなさい」といった言葉をよく耳にした。発話者の目的は、単なる大学入試のためか、本意は定かではない。当時の彼らに聞いて回りたいほどだ。ただ、「英語という言語を楽しみなさい」と言う者は誰もいなかった。たしかに、始めは知識や言語の表現等を蓄えるだけでいい。基礎もままならないのに最終目標となる大物を狙っては、「二兎を追う者は一兎をも得ず」だ。早く成長したいと先走る気持ちも、言語や勉強を通して見える新天地に足を踏み入れたい気持ちも、ゆっくりと徐々に理解できるから、焦る必要は無い。牛歩のごとく着々と歩みを進めるべきである。勉強から得た人間性と蓄えてきたドットは、自己表現が肉付けされたラインに変わり、そのラインに、言語から得た視野や新しい価値観を加える。これらを通して得た「何か」には非常に価値があり、時には人生の指針ともなり得る。

 

 今後、もしあなたの周りの環境が変わり、価値観や考え方に変化をもたらす機会ができたとき、勉強から生まれた既成のドットや視野を広げる言語が役に立つ。たった数週間であったとしても、人は成長し、大幅に考え方を変えることができる。それらがあなた自身を変え、高望みしてはいけないが、時には努力が身を結び、少しの結晶となる。ドットが少なく、偏見にまみれた「不勉強」な人間は、その結晶ではなく、過去のあなた自身を見つめ続ける。いつまでも彼らの時間は止まったままだ。彼らの時間と差をつけよう。先に進もう。そのために、言語習得を含めた勉強は必要不可欠である。