Sponge Mind

日常と非日常の触発ブログ

選沢三昧

   ご飯か、パンか。たけのこの里か、きのこの山か。メガネか、コンタクトか。仕事の報酬は、完遂した分だけ得られる形式か、安定優先か。はたまた報酬をさほど重視せず、やり甲斐を求めるのか。日常生活を過ごすにあたり、私含む現代人には沢山の選択肢が与えられている。当然、経済的な理由等で断たなければならない選択肢もあるが、ある程度自立すると選ぶ機会は格段に増える。とにもかくにも、比較的恵まれた時代に私たちは生きている。

 

   選択肢に恵まれるとはどういうことなのか?この記事を書くにあたって、Webの関連ワードで「選択パラドックス」という言葉を見つけた。非常に興味深いものだったので、ぜひ朝日新聞DIGITALの『選択のパラドックス 選択肢が増えることは良いことか?』( https://www.asahi.com/sp/articles/SDI201801151206.html )を閲覧していただきたい。

   上記のリンク先の記事では、選択肢という後悔の因子数が増えることで、与えられた結果に対して無気力や不満を感じる人間が増えることを懸念されている。

   もしコンビニへ立ち寄らず早歩きしていれば、電車に間に合ったのに。もしあの時正直に言わなければ、揉め事にならなかったのに。もし仕事中あの小道具を使っていれば、もっと潤滑に進められたただろうに。もしその日の仕事に関する資料をもっと収集できていれば、さらに有意義な仕事内容になっただろうに。仮にもっと勉強していれば、深みのある思考力を手に入れることができていただろうに。仮にこの職業を選ばなければ、今頃は…どうなっていただろう?こればかりは想像がつかない。しかし、過去の迷える子羊エピソードの大半は、「もし〜していれば、…だったのに」でまとめられるものばかりだ。ちなみに、この職業を選んだことに悔いはないかと言われると、分からない。というか、分かりたくない。この正誤のない人生で、自分の選択にマルとバツをつけたくない。後悔するだけ無駄。消極的な考え方をしていると、周囲には同情する人間しか集まらない。「こうしていれば、過去の自分は改善したはず!次頑張ろう!」それくらい軽い気持ちで前に進もう。無気力や不満を感じてしまうのは、どうしても理想を求めてしまうからではないか。理想は無限大である。理想が強欲を育て、強欲を操れない者が破滅する。

 

   ところで、しばしば耳にする選択肢の話題である「海派?山派?」は、必ずと言ってよいほど物議を醸す。

   この間、ウインドサーフィンへ連れて行ってもらった。誘ってくれた上司には非常に感謝している。ちなみに職場の上司らとプライベートに1日を費やすのは初めてのことで、有意義な経験だった。

   スポーツ音痴を自負する私は、経験したことのないスポーツに対して万が一のことを考え、参加していない。ウインドサーフィンに「参加するか」、「参加しないか」。それも人生の選択肢だ。彼らが海上でスポーツをする間、私は何をするのか。YES/NOではなく、幅広い選択肢が与えられた。何をするにも、節度を持って自身が楽しければいい。選択肢の選び方や物事の見方によって、自身が楽しめるかどうか変わってくるというのが私の見解だ。

   数ある選択肢から、浜辺で写真を撮ることにした。無難ではあるが、楽しそうな人たちを眺めるのが好きで、その姿を本人にも見せたいと思ってしまう癖がある。撮影に向いているのかもしれない。上司らの写真を撮り溜め、満足しているうちに他のことへ気が散るようになる。日焼けさせようとジリジリ光る太陽、遠くの砂浜に見える蜃気楼、鼻を掠める潮の香り、煌めく波…。季節柄、いつでも登れる山より、海に惹かれてしまう。

   夏という季節に身を置く現在の私は、確実に海派だ。夏休み中、どこで何をしたいか今尋ねられたら、海へ行ってウインドサーフィンをしたいと答える。

お題「海派? 山派?」

 

 

   何度でも言いたい。この時代は恵まれている。選択肢の多さに幸せを感じる人もいれば、選択肢に振り回される人もいるだろう。しかし、常日頃から選択肢という概念に振り回されているのか?そうではない。何となく選ぶ場合もあれば、楽しそうだからと選ぶ場合もある。その際、「選ぶ」という表現よりも、「〜したい」や「〜したくない」の表現が適切なのではないだろうか。運動音痴だから知らないスポーツに突然参加するのは怖いため、参加したくない(参加するのが億劫だ)。ウインドサーフィンをしないから、写真を撮りたい、のように。自己決定権なんて、自由の塊だ。自由は、自身の興味本位と意思に委ねられている。選択肢なんて固い言葉で考えなくていい。自分の人生だから、気の赴くままに動けばいい。後悔による文句ばかりの人生は、自分を潰すことになる。それでは人生が勿体無い。たまに後悔するぐらいが、人生のスパイスとなり、美味しくいただける。物は考えようである。

   こんな時代に生まれた私たちは、自分の人生なのだから、毎日、贅沢に選択することができる。贅沢三昧ならぬ、「選沢三昧」の日々を、いかに工夫して過ごすかは自分次第だ。