Sponge Mind

日常と非日常の触発ブログ

日常に転がる「美しさ」

 時間が心にゆとりを与え、そのゆとりが、感情、好奇心、ひいては「美」への意識を高める。今回は「美しさ」に焦点を当てて記事を書く。

 仕事の関係上、近頃少し時間に余裕がある。つまり、心にゆとりがある。先日、職場の都合のため、定時よりも1時間半ほど早めに退勤できる機会を得た。当初は買い物を済ませたら帰宅しようと計画していたものの、散歩を楽しんでいるうちに、家へ帰る気が失せてしまった。現在の居住地周辺は、騒々しい出生地とは全く異なり、外であっても静かで落ち着いた雰囲気が漂い、散歩や冒険の甲斐がある。そのようなことから、高ぶる気持ちに駆られて散歩がやめられなかった。ふと空を見上げると、本当に美しい空が広がっていて。陽が落ちるまで空を仰いで過ごした。都会とは異なり、ほとんど高層の建物や障害物がなく、地上で立っているにもかかわらず空がとても広くオープンに見える。橋の上だと尚更だ。大好きな場所。本当に綺麗だった。

 

 もともと都会生まれかつ都会育ちの私が、喧騒から離れた場所へ偶然引っ越すことになるなんて、18歳の頃は考えもしなかった。今の居住地が完全に田舎か問われると、少し首をひねってしまう。ただ、自然に圧巻された時が、越してきてよかったと思える瞬間の1つだ。『都会と田舎』については、次回の記事で述べることにする。

 

 私の趣味の一つに、写真撮影がある。どこへ撮影しに行こうかと迷い、撮影し、その後データを見返す。まるで予習、授業、復習の3段階を踏んでいるかのようで面白くてやめられない。友人に、どこなら写真が綺麗にとれるのかと度々聞かれることがある。私にとって日常の光景が綺麗で、特異な場所に赴くよりも、むしろ普遍的なものこそ真の美しさなのではないかと思えるほどだ。また、普段目にも留めなかったようなところに発見を見出すこともできる。とても興味深い。写真を撮るか撮らないかの違いは、カメラという機械のレンズを通してデータとしても記録するか、目というレンズを通して心に残すだけなのか、という違いであると考える。通勤で毎日歩く道、雨上がり後に雨粒が輝く物干し竿、太陽の日を受けて煌めく磨りガラス、何かに急かされている人、遮るものがほとんどなくオープンに広がる空。すべてが写真として美しく、愛おしく感じる。

 

 私の場合、心にゆとりがある時、「美」を感じるのかもしれない。ブログ閲覧者はどのようなときに、何を美しいと感じるのだろうか。

 

 日常生活でも、つねに「美」は転がっている。それが足元であれ、頭上であれ、見つけることができるか、それを美しいと思うかはその人次第だ。時間と心のゆとりが、私の心を育ませてくれる。